奈良市内を中心にヨガをお伝えしています。ヨガのまわりー日々の何気ない暮らしーで感じることや考えることを綴りながら、自分や世界と深くつながっていけたらと願う気ままな日記です。

走り続けた朝に

お盆休みは夫の実家である鹿児島に帰省した。今回はなんと奈良から車で帰ることに。(ひぇーっと思ったけれど、帰るか帰らないのか、伸ばし伸ばしにしてたらもう飛行機も新幹線も取れない時期になっていたのでいた仕方ない)

渋滞を避けて夜中じゅう走って朝にはつくだろうと、以前に経験のある夫談。わたしは内心ドキドキしながら、想像もつかない道のりについて深く考えないことにした。夜の20時頃に出発して、2人で運転を交代しながら、関西を抜けて岡山、広島、山口から関門海峡を渡って九州へ、それからどんどん南下して鹿児島を目指した。

もうすぐ満月を迎える月がずっと伴走するように前にあって、どこまで見られるのか、いつ沈んで行くのか、追いかけるように走っていたら時間も忘れてぐんぐん道が闇の中に消えていくようだった。

休憩に止まるどこのサービスエリアにも真夜中にも関わらず同じような人たちがいて、同志を得たような気持ちがして心強い一方で、夜の電灯に集まる虫のようだなぁ我々は、とおかしく思ったり。20代くらいの若者が1台に乗り合わせたグループもちらほらいて、これからどこへ行くのかな、友人同士で楽しいだろうよそれは、と青春のおすそ分けを感じさせてもらったり。

そんな風に意外にもほとんど苦も無く、非日常な時間を感じつつ走り続けた。


熊本辺りを走っている頃にそろそろ夜が明ける時間だとわたしはソワソワ。隣では夫が窮屈そうにシートに丸まって眠っていた。きっと美しい朝焼けが見られるだろうと、起こしたいけど可哀そうな気もするし、そのまま寝かせておくことにした。

気付けば真っ暗闇一色だった周りの景色が、空と山々の境が分かるようになっていた。輪郭がくっきりしてきた。だんだん空が明るくなってきているのだ。走っている方角からすると、後方か左手あたりから朝日が昇ってくるはずだけれどと、車の少ない高速道路を用心しながらチラチラとミラーを見たり窓の外を見たりしながら走っていると、そのうちだんだん明るくなってきて、朝焼けが広がっていた。

ゾワゾワと鳥肌が立つくらいに美しくて神聖な時間が過ぎていく。朝のこの瞬間はいつも特別な雰囲気。これが毎日、毎朝繰り返されて一日がはじまっている、そのことに深い意味を感じずにはいられなかった。途切れることなく続いていく時間の流れをこうして新しく新鮮に生まれ変わらせる力、そのお蔭でわたしたちはまた一日を昨日とは違う今日として受け取ることができるのだ。そして闇をおそれながらも、それに全てを覆われることなどないと完全に信じていられるのだと思う。闇があるからこそ、闇の中からこそ朝が、光が生まれてくるのだから。

そしてこんな風に一日がはじまっていることを、みんながすっかり忘れていようとも気になど留めなくとも、なんにも変わることがなく同じ営みが続いている、そのこともこの世界の奥深さだ。

怒涛のように色んな感覚が押し寄せてきて、そして”闇は光の母”という谷川俊太郎さんの詩のタイトルがふと浮かんできて、実感とともに心に響いた。

(最後の方だけ抜粋します)闇は無ではない/闇は私たちを愛している/光を孕み光を育む闇の/その愛を恐れてはいけない


思えば狭間って不思議だ。季節の変わり目も、こうして朝と夜の境目も、そう、呼吸の吐く息と吸う息の境目も、合掌で両手が触れ合うギリギリの瞬間も。その相反するものが入れ替わる短いひとときはどれもとても濃密で、繊細で不思議で美しい。どうしてこんな風に世界はできているのか、見ても見ても興味が尽きない。面白くて、そして圧倒されてただ感謝するしかできない、いつもいつも。なんだか切ない、ね。


そうして朝がなんでもない顔をして広がって、神秘的な美しい時間が消えた頃に夫がもぞもぞと起きてきて運転を変わってくれたので少し眠らせてもらった。起きた時には鹿児島市内まで走ってきていて、無事に実家に到着。荷物を運び入れてその足で近くの温泉まで歩いて朝風呂に浸かって、また遅い午後までぐっすり眠りについた。